夢を追って渡ったマカオでプロポーカープレイヤーに

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洋画のカジノを見て憧れ、兄のツテからマカオへ

 6月、サミーはポーカープレイヤーとして活躍するじぇいそるとのプロ契約締結を発表した。若くして海外に飛び出し、確かなポーカーの実力とともにこれまでマカオ、フィリピン、ラスベガスで活動している。最近ではYouTubeでの発信を精力的に行うじぇいそるに、ポーカープレイヤーになった理由や3か国を渡り歩いた経緯、他に類を見ない半生について語ってもらった。(取材・文=片村光博)

日本では近年、ようやく認知されてきたポーカープレイヤーという職業。じぇいそるはその先駆者とも言える存在で、2021年には「職業プロポーカープレイヤー カジノを『職場』にする生き方」を出版した。数か国を渡り歩くキャリアは、どのようにして形成されたのか。

「僕はもともと映画が好きで、『オーシャンズ・イレブン』のようにカジノの出てくる洋画を見ていて、憧れを抱いたんです。そして、10代のときに『カジノで働きたい』と思いました。当初はラスベガスに行って、カジノのディーラーになりたかったんですが、兄に相談したら『マカオに行こうぜ』という話になったんです。ウィン・マカオ(※)という施設の日本人スタッフを紹介してくれると聞き、英語も中国語も話せませんでしたが、携帯電話も何もかも解約してマカオに行ったんです。

兄から紹介された経緯もあり、僕はもう採用が決定していると思っていたんですが、面接を受けたら落ちてしまいました(笑)。本当に紹介してもらえるだけで、話が進んでいるわけでもなかったんですね。すでに全部準備して行っていたので、『どうしようかな』となったんですが……。当時の年齢にしてはアルバイトや仕事で少しお金も貯めていたので、最初はカジノでギャンブルをして遊んでいたんです。その中で、ポーカーだけは結構勝てていました。ポーカーを職業にしている人が僕たち以外にあまりいなかった時代だったこともあり、気付いたらポーカープレイヤーになっていた、というのがしっくりくる表現かなと思います」

夢を追ってマカオに飛び込み、想定外の事態の中でキャリアをスタートしたことも、「今となってはよかった」と振り返る。充実した日々の中、日本に戻るという選択肢はなかったという。

「本当に楽しくて、兄に加えて日本人2人――今のYouTubeカメラマンも含みます――との共同生活をしていました。海外でそうやって共同生活をするということが、自分にとってすごく新鮮でした。それまであまり海外に行ったことはなかったんですが、いろいろなことに困ったとき、現地の方に助けてもらうことも多く、海外がすごく好きになったんです。ずっと海外にいたいという気持ちもあったし、お金も増え続けてはいたので、帰る理由はなかったですね」

その後、マカオの次に選んだフィリピンでは、ポーカープレイヤーとしての活動を続けつつ、オンライン英会話のビジネスも進めていった。

「どこに行くかを決めるにあたり、ポーカーができる国ということが最重要項目でした。兄が日本に帰ったとき、地元の三重県四日市市で『Liiink(リンク)』というアミューズメントカジノの店を出したんです。そこから兄はポーカーを広めていくために経営の仕事を、僕はプレイヤーとしてしばらくやろうということになりました。

マカオ時代、中国語に加えて、オンラインで英語を勉強していました。そのときのフィリピン人の先生からいろいろ話を聞いて、『ポーカーもできるよ』と教えてもらいました。そして『これは良いビジネスだな』と思い至ったんです。今でこそオンライン英会話はメジャーですが、当時はそうでもなかった。可能性を感じ、貯まっていたお金でポーカー以外にも挑戦しようとなったことがきっかけです。フィリピンではセブ島に住み、ポーカーと並行してオンライン英会話の事業を2年ほど続けていました」

一方で、首都・マニラのような都心ではなかったこともあり、ポーカーのレートは高くなく、ゆったりとした国は気に入っても「刺激はあまりなかったというのが正直なところです(笑)」と振り返る。次の“職場”に選んだのは、カジノの聖地・ラスベガスだった。

※ウィン・リゾート社が経営する統合型リゾート

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